banner
ホーム
Home
spacer 新着情報
What's New
spacer 今月のコラム
Monthly Column
spacer 霊のことば
Spiritual Words
spacer 連絡先
Contact
spacer リンク
Links

spacer
今月のコラム Monthly Column
spacer

聖公会の伝統余滴 
Stories on Anglican Tradition        

第8話

マリヤ野沢美津子先生の生涯 
A Memoir of Maria Mitsuko Nozawa sensei

           
野沢先生は、2013年2月11日、榛名の新生会誠の園で天に召されました。95歳でした。
私は、先生の40歳の頃から榛名荘老人ホームで意識も薄く寝たままになられるまで、いささか御縁があったので記憶に残る一、二のことを記したいと思いました。

先生は1918年(大正7年)新潟市に、野沢康平氏、律姉の長女としてお生まれになります。直江津高女に進学、卒業直前の1月、直江津聖救主教会で受洗、そして佐々木鎮次主教から信徒按手式を受け、4月に名古屋の柳城保母養成所に入学されました。今の柳城短大です。しかし、入学8カ月で結核のため中退、長野の小布施新生療養所に入院となったのです。

考えてみると、野沢先生の生涯は、その後の20年間に及ぶ入退院を繰り返す療養生活という第1の時期と、快癒のちの主キリストの奉仕者としての活動の生活という第2の時期に大きく分けられます。前の半分は、小布施から始まって茨城のトキワホームでの静養、帰郷、そののち3年間、横浜の国立療養所浩風園の研究室員として奉職、再び発病、そのまま浩風園に4年間入院、さらにその後5年間、群馬県榛名荘病院に入院、という生活でした。この間、直江津の藤松 榊司祭、神愛修女会の深田霊母、横浜の岩井克彦司祭という人々の配慮と指導を受けられました。

人は、病気が長引くと、どうしても希望や意欲を失いがちになり何事にも悲観的になり易くなるように思います。この野沢先生をその青春時代から30代の最後まで支えたのは、もちろん御家族の温かい支えであったと思いますが、同時に、聖公会の信仰、良き指導者、良き教友たちの力であったと思います。ふり返ってみれば先生の場合、口には出されませんでしたが、この20年間はきっと、いつ終わるとも知れぬ長い長い20年であったことと推察されます。それ故に、先生の病者に対する共感と、病気克服への意志の共有というようなものがこの時期に養われたのではないかと思われるのです。

さて、その生涯の第2期は、尊敬する岩井先生の勧めで、京都のウイリアムス神学館に入学、教会の祭壇奉仕、祭服刺繍の勉学・修業に励まれるところから始まります。その後、教会に戻って、いくつかの教会で、研修、病者訪問、祭壇奉仕の指導などを経験、1965年9月、47歳の時に伝道師に任命されました。その後の20年間は、逗子、静岡、横浜聖アンデレ主教座聖堂に居住して定年まで、教区の祭壇奉仕者の会(教区オールターギルド)の指導を主な任務として奉仕を続けられました。

無牧の教会の留守番に任命された時、ウイリアムス神学館仕込みの朝夕の祈りをささげ、折々に聖書のお話をしたり、病人訪問、信徒名簿の整理などをして、管理牧師を助けられました。先生にとっては、3年に亘る神学生としての神学館の寮生活はとても大きな経験だったようです。

お聞きしたお話のうち、思い出すのは次の二人の人物のことです。

一人は、当時の神学館長佐々木二郎主教のことでした。野沢先生には優しい父上のような人であったようです。同主教は、俳人であり、骨董趣味もおありでした。茶碗とか急須とかが収集されていました。或る時、先生がその理由をお聞きすると、お好きだということは勿論のことですが、どの茶碗にも傷があって、傷のあるところが可愛いのだ、と答えられたそうです。野沢先生には心の安らぎを与える答えでした。

もう一人は、矢張り京都時代のことですが、或る年上の先輩婦人伝道師のことです。この人は、すこし厳しいところがあり、あまり司祭達には親しくされていないように見えていました。そういう話をしていた時、野沢先生は、その伝道師の晩年の話をされました。或る時、その先輩伝道師がつくづく、野沢神学生に述懐されたそうです。「わたしはこれまで、モーセの十戒の『なんじ、父と母とを敬え』という戒めをどうしても心から唱えることは出来なかった。でもごく最近になって、父と母を赦す心が生まれて来ました。」と嬉しそうだった、ということでした。確か、その伝道師が重い病気でベッドにあった時の話でした。

私ごとですが、私が神学校に入学する前の1年ほど、牧師岩井司祭のもとで、準備の時間が与えられました。ある日、野沢先生に付いて病者訪問をすることになりました。その病人は、肺結核の末期で臨終に近い状態でした。普通、結核患者は臨終また死の直後には、口からは結核菌を沢山排出すると言われていましたが、野沢先生は、最後まで枕元に侍り、駆け付けた司祭が与える臨終の塗油の秘跡に立ち合われました。わたしは、その時、容体が落ち着いたようであったので先生の勧めで先に帰宅しましたが、その、枕元に腰掛ける先生のお姿によって、教会の働き人は如何にあるべきかを、初めて深く学ばせられたのでした。そういう意味では、野沢先生は私の恩人の一人なのです。

もう一つ忘れてならないことは、先生は、時々へまをし親しみ易い人柄でしたが、広く深く読書をする人でした。岩波書店発行の月刊広告誌『岩波』や、雑誌『芸術新潮』を読み、聖人伝や、信心修練の本をよく読んでおられたことです。本務である教会刺繍では、当時のナザレ修女会のシスターたちと交わりがあり、当時、カトリックでも祭服の刷新がありましたが、それがある意味で現代化しすぎた頃、カトリックの中にも反省が起こり、或る典礼神学者は、祭服は、単に実用本位のものではなく、例えばチャジュブルの場合、御体(と御血)の秘跡の尊さを覆いながら表すものであることを表さなければならないという趣旨の書物を著しましたが、先生は、その書物をわたしたちに紹介して下さいました。

榛名に行かれる時、もうひとには迷惑はかけられない、私にも、レクイエム葬送ミサをして貰えればそれでよい、ということでした。2,3年前、一度榛名荘を訪ね、岩井夫人の案内で先生をベッドに見舞ったとき、言葉はもうありませんでしたが、耳元で聖歌を歌った折、何か静かに聞き入ってくださったように思えて、主キリストと共に在る喜びに満たされたことが今は思い出となりました。

 願わくは、世を去りし信徒の霊魂、主の御憐れみによりて、安らか憩わんことを。 

(2013・4.4 RSK)
spacer
今月のコラム バックナンバー Monthly Column Archives

spacer


Copyright 2013The Nippon Kirisuto Sei Ko Kai. All rights reserved.