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メッセージ • Message
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命のパン
Bread of Life
ラファエル梶原史朗 Fr. Raphael Kajiwara

命のパン。この言葉は何となく、習慣的に聞き流してよい言葉ではない。

私たちは死ぬほど飢えた事があるだろうか。戦中、戦後の経験でも、わたしは死ぬほどに 飢えたことが無い、多くの人が戦争のさなかに戦火のみならず飢えで死んで行ったのに。

飢えは悲しい事、恥ずべきことではないのではないか。人間の尊さを学ばされる尊い機会 なのだ。 私たちは、普段おいしい物を食べると、本当に腹の奥深くに満ち足りた思いが生ま れる。口の中の味わいによって生ずる満足感は、ああ美味しかった、という食後の満足感へと 続く。食べ物は人の幸せの根本である。

でも、食べた時だけの満足感は、一時的で、少し経つと消えてゆく。

しかし、この食べ物によって自分の命がつなぎ止められ続いているのだ、という意識へとひろ がってゆく時、それは深い満足となる。 私たちは、食べ物が無いと生きられない。パニックに なる。 食べると本当に満足が与えられる。

キリストのパンは、そのようなものであり、キリストは御自身のことを「私は命のパンである」(ヨハ ネ伝6章) とおっしゃった。まことの命、永遠の命、救いを与えるパンだ。

それはキリストの口から出る一つ一つの教え、御言葉でもある。おいしい食事の後の深い満足感と 全く同じに、キリストの憐れみ深い聖餐と言葉は、それに陪かる度、思い出す度に、わたしたちに永 続的な深い満足感を与える。

私たちは、世界的にみて閉塞したように思われるこの世の中にあっても、どんなことでもして食べ物 を獲得するために体を動かし、自分一人のためにではなく、自分よりも苦境にある人のことを思って、 他人のためにも働かなければならない。

それ故にわたしたちは、この世の生活がどんなに困難であり苦しくても、毎日の食べ物を得ようと努力 し、かつ、キリストの命の言葉と、命のパンにあずかれるように精いっぱい努力すべきではないだろうか。 食べ物のパンを求めることと、命のパンを求めることは一つなのである。

(2011年12月)








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