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メッセージ • Message
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自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわれに従え(ルカによる福音9:23)
Let them deny themselves and take up their cross daily and follow me.
-- 灰の祝福後の木曜日 --
司祭ラファエル梶原史朗


主イエスが五千人の人々を養われた後のことです。弟子たちに、「群衆はわたしのことを誰と言うか。」と問われ、弟子たちはいろいろ答えました。そこでさらに、「あなたたちはわたしを誰と言うか」と、質問されました。ペトロはそれに対して、「(あなたは)神からのメシアです」と答えました。実は、主イエスは、このペトロの告白をずっと待っておられました。

そしてこの時、主は、まことのメシアである御自分が受難・死・復活という十字架の道を、これから進まなければならないと、弟子たちに初めてお示しになったのです。これは、マタイの福音書、マルコの福音書もみな同じです。そして更に言われました「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

今日の説教は、この御言葉が主題です。

わたしたちはしばしばこの御言葉を、単独に取り出して、それは、なかなか難しいことだ、とか、何か決まり文句を聞いている感じで、一向に自分のこととは思わないで過ごしていることが多いのではないでしょうか。

しかし、主は先ず、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている、」と真のメシアの取るべき道を予告された後、続いて弟子たちに、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って私に従いなさい」、と言われたのです。

その主のお思いは、ご自分が背負うべきこの十字架は人々の罪を背負い、その罪の赦しのためのものである。弟子であるあなた方の十字架もわたしが背負っている。しかし、もしあなたがたが、わたしに従いたいと思うなら、夫々自分の十字架を背負って私に従いなさい、ということでした。主のお心は、わたしの十字架と、あなたがたが日々背負うべき十字架は、決して別のものではなく、実は一つのものである、ということでありました。

パウロはこう言います。「今や私は、あなた方のために苦しむことを喜びとし、キリストの教会のために、キリストの苦しみの(なお)かけたところを、身をもって満たしています。」(コロサイ書)と。

つまり、主は、わたしたちの十字架を背負ってくださいますが、わたしたちが、自らに与えられた十字架を背負って主に従う時、主イエスの十字架をも共に背負わせていただくことになる、ということなのです。

クリスチャンはこのことに気付かなければいけません。

この、自分の十字架を背負うということを、同じくパウロは、こう言っています。コリント後書の有名な処です。

教会の中の一部のユダヤ主義者たちが、コリントの教会を混乱させ、パウロの使徒職や資質に疑いの目を向け、非難したり蔑んだりしていましたが、それに対してパウロは激しく言いました。

かれらは自分を誇ってわたしを蔑むが、どうか許して頂きたい、わたしも愚かになって自分を誇ろう。

彼らはヘブライ人なのか,わたしもそうだ。イスラエル人なのか、わたしもそうだ。アブラハムの子孫なのか、わたしもそうだ。キリストに仕えるものなのか、狂ったように言うが、わたしは彼ら以上にそうなのだ。

苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に会ったこともたびたびだった。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒野での難、会場の難、偽兄弟の難・・、しばしば眠らず、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともあった。・・・その上に日々わたしに迫る厄介なこと、あらゆる教会についての心配事があった。ああ、誰かが弱っているなら、わたしが弱らないでいられるでしょうか。

こう言って彼は自分を振り返ります。そんな自分にキリストは恵みを下さり、自分に使命を与えられた。自分は自分の弱さを誇ろう。だからわたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足している。言い換えれば、わたしはキリストを誇ろう、と言うのです。

つまり、パウロは、わたしたちが自分の十字架を背負って主に従う時、主が、わたしたちに主の十字架を共に背負うことを許してくださる、と言っているのであります。

今のわたしたちに当てはめて考えてみましょう。

自分の十字架とは、人によって異なります。

わたしたちには、自分の弱さ、欠点、自分の不本意な状態、病気、辛い環境、等々、自分の辛い苦しい現実のさまざまな具体的な重荷があります。比較的軽いものもあれば、人には知られたくないもの、沈黙していても重く、息をするのも辛いものも様々にあることでしょう。でも、それが、自分の十字架である、と主は言われます。

わたしたちは、それらを、嫌なものとして否定したり、逃げたりしないで、パウロのように、前を向いてその現実を自分のものとして受ける時、わたしたちはその自分を、辛うじてあるいは積極的に、肯定し、愛し、喜んでそれを背負い続け、キリストに従うことが許されるのであります。あるいは、不幸にして背負い切れず、只ひたすらに立ち止まって耐えるしかない状態であっても、主は、その人と、ともに立ち止まって、ともに耐えてくださいます。それが、キリストが共に背負って下さっているということの意味なのであります。

しかしもう一つの大事なことをわすれてはなりません。自分に与えられた十字架を背負うことは、決して、誰も理解してくれない自分ひとりの孤独な歩みではない、ということです。これは、また、大切です。

キリストが、私の十字架をわたしと共に背負っていてくださること、また自分がキリストの十字架をキリストと共に背負っていることを、周りの人々に決して広告宣伝はしなくても、しかし自分がしっかりその道に歩いておれば、そのことは、周りの人々、兄弟姉妹、友人、職場の人、地域の人、更には、全く見ず知らずの人々にも知れて行くことになる、ということであります。

そしてそのように知れて行くことは、それらの人々に何かの変化を及ぼし、それらの人々の生き方を変えて行くことに繋がるのであります。それが、伝道するというということであると思います。

つまり、自分の十字架を背負って主に従って行く道は、孤独な辛い道ではなく、主や兄弟や他の人とともに喜べる伝道の道なのであります。

十字架の道は、決して孤独な道では有りませんし、またそうであってはいけないのです。それは本質的に孤独の道ではなく、人々とともにキリストの復活の命へ続く道なのです。それが、キリストの中に成就した復活の命そのものなのであります。

主とともに十字架の道を進んで、ついに復活に至る、それが伝道の道であり、福音の道であり、キリストと共に歩む巡礼者の道、というものではないでしょうか。

今日、わたしたちは、昨日に続いて、悔い改めのしるしである灰を額にいただき、四旬節の二日目を迎えました。自分の十字架を思い、心を悔い改めるべき40日が始まっていす。

己が命を救おうと思う者はこれを失い、キリストのために己が命を捨てる者は、これを得る、とは、やはり本当なんです。

父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。            (2016・2・11)





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