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メッセージ • Message
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聖書に親しむ
アブラハム 田中信彦

私は小さい時から旧約聖書に親しんできました。それは父から寝物語に旧約聖書の話をよく聴かされていたからです。特に創世記の話が記憶に残っています。そこには天地創造、失楽園、ノアの箱舟、バベルの塔、アブラムの召命、メルキゼデクの祝福、アブラハム、イサク、ヤコブと神との交流、ヨセフの物語などなど神様の不思議なわざが語られています。失楽園では、善悪の知識の木、蛇の子孫と女の子孫の間の敵意、女の子孫が蛇の頭を砕くこと、園の中央の命の木、ケルビムに命の木に至る道を守らせることなどが語られています。これらの話は、十字架、復活、昇天の意味や罪の問題を考えていく上で非常に重要な話です。

小さい時にこれらの旧約聖書の物語に親しみ、何度も繰り返し読み聞かされたことは私の人生の宝物になっています。父は研究していた初代教会の教父たち、とくにエイレナイオスなどのギリシア教父の考え方を織り交ぜながら聖書の話をしてくれました。「蛇の頭を砕くとはイエスの十字架による悪魔に対する勝利である」「イサクの代わりの一匹の雄羊がイエスである」など旧約に隠された新約の意味を説明してくれました。今から考えると、ギリシア教父の考え方を織り交ぜながら旧約聖書に親しむこと、これが父の信仰教育だったのです。父なる神と人類、ユダヤの民の物語をよく知っていることがその後の主イエスとの出会いに生きてくるというのが父の信念だったのです。

堅信を受け、中学生になったころから自分で新約聖書を手に取って読むようになりました。私の好きなたとえ話は、借金帳消しの話(マタイ18:21-35)、ぶどう園の労働者の話(マタイ20:1-16)、二人の放蕩息子の話(ルカ15:11-32)です。この中に出てくる王(主君)や主人や父親は、イエスの教える父なる神のことです。この信じられないほど気前のよいイエスの教える父なる神は本当に偉大です。父なる神は前もって憐れみだけでゆるし、憐れみだけで恵みを与えてくださっているのです

しかし、教会の教える十字架に関する教義やカテキズム、「犠牲説」「刑罰代償説」などで論じられる神は、そのような父なる神とはかけ離れた存在のように私は感じています。教会は、誘惑者である悪魔の存在を無視し、女の子孫であり人であるキリストが十字架上で身代金として自分の命を捨てることによって蛇である悪魔に対し勝利したことを忘れ去っているように思います。勝利者キリストが忘れ去られる時、代わりに原罪の負債を私たちに代わって神に支払い、償ってくれるイエスが現れます。悪魔に対する勝利と喜びの歌声は、イエスへの同情と悲しみの歌声となり、イエスの教える信じられないほど気前のいい父なる神はどこかに消えてなくなってしまうのです。赦すために犠牲を必要とする神、憐れみだけで人間を許すことのできない神、これが果たしてイエスの教える父なる神なのでしょうか。イエスは、十字架で身代金として命を捨てたのです。父なる神に献げたのではないのです。まして父なる神に対する犠牲でもありません。罪の代償でもないのです。なだめの供え物でもないのです。

大切なことは繰り返し聖書を読み、聖書に親しむことです。わからない事や疑問に思うことを遠慮なく、神父、司祭、牧師、代父母、主にある兄弟姉妹に質問することです。質問された者にとって謙虚に聖書を学ぶ良い機会となります。それこそが教会の交わりの中で聖書を読むということです。愚かな質問など一つもありません。残念ながらあるのは質問された側がする多くの愚かな答えです。聖公会での女性司祭、女性主教の誕生はそのような愚かな答えの一つです。教会の意思決定をする指導的立場の人たちが神のことを思わず、人のことを思った結果です。

受洗者が教会に来なくなる理由、若い世代が教会に来ない理由は、教会にいる私たちが正しくキリストを伝えていないからではないでしょうか。自信をもってイエスの十字架を伝えられないからではないでしょうか。誤った教えでは霊的に満たされないのです。聖書のみ言葉の学びは、感謝の祈りをもって共に分かち合えば私たちを満たし、私たちの肉となり血となります。少年のもっていた「五つの大麦パンと二匹の魚」は、父と子と聖霊なる神の働きにより五千人を満腹にしてなお、残りを集めると十二のかごにいっぱいになったのですから。





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