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大斉節を迎えて。
—カトリック司祭に按手されて思う—


In Lenten Season
—ordained as a catholic priest—


ラファエル梶原史朗 / Fr. Raphael Kajiwara

今年の1月15日に、わたしはカトリック司祭に按手されました。そして直前に、ミサ奉献文を唱える練習をしておりました。そのとき先ず分かったことがあります。 実はわたしはそれまで、カトリック教会は、聖餐式文の中にさえ、やたらと聖人たちの崇敬を入れるような中世色の抜けきらない教会であると思っていました。しかし按手式の前日まで、ミサ奉献文を実際に献げるつもりで、予見を廃し、受け身で、自然に唱えてゆく中で、全くそうではないことに気付かされたのです。この教会は、使徒たちや聖人たちが、今もわたしたちとともに身近かにおられる教会だったのです。使徒たち、聖人たちの交わりの中へわたしたちも入れられるという教会、イエス様と、使徒や聖人たちが今も、そこに身近かにおられるという教会、救い主キリストまで歴史的に直接にさかのぼりうる教会である、ということを悟らされたのでした。これは、わたしにとっては大きな喜びのショックであり、発見でした。

丁度、1年前、横浜で、ある一つの説教を致しました。それは、「キリストのおられる処に教会はある、Ubi Christus ibi ecclesia 」という説教でした。それは、故ラムゼイ大主教によれば、古代教会以来の、信仰の原理と言えるものです。外面的にも制度的にも整った立派な人間集団としての教会が、本当の教会そのものなのではなく、あくまでキリストのおられる処に、教会は生まれ、存在し、成長するということ、また、今キリストのおられることをわたしたちが味わい、知ることのできるのは、まさに聖餐式そのものにおいてである。どのように貧しい所であっても、聖餐が捧げられている姿が教会であるという趣旨の説教でした。

その当時、わたしたちには、礼拝をする場所もなく、聖餐を自宅で行うほか、年に2回ほどホテルの会議室を借りて聖餐をささげるしかありませんでした.(実はいまでもそうですが、しかし今は、心置きなくカトリック教会の聖餐に与ることができるようになりました。)大きな伽藍もなく小さな礼拝堂もなく、ケルトの修道士たちあるいは危険な道をひたすら歩く巡礼者たちの姿に自らを重ねて、キリストのおられる処に教会はあるというこの言葉に、大変勇気ずけられ、慰めを得ていました。今でも、その信念に、変わるところはありません。

その信念をもって、この度、カトリック教会に受け入れられた結果、そこで見出したのが、カトリック教会それ自身が、実は、主キリスト以来の巡礼者であり、その聖餐式の中に主は確実にいます、という真里であったのです。まさに、「キリストのいます処に教会はあった」のでした。

わたしたちは、今、大斉節(四旬節)のうちにあります。荒野の四十日の主イエス様の試練の記事に改めて心を深く留め、黙想いたしましょう。

2015・2・25    RSK





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