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聖公会司祭山本祐策師の説教

まえがき

わたしたちが日本キリスト聖公会であった時に、正規の修練と学びを経て聖公会司祭として按手叙任されたレビ山本祐策師は、わたしたちと同じく、カトリック司祭按手を受けることを志願いたしましたが、病に倒れここ2,3年闘病を続けておられます。そしてその志願もそのままになっていることと思われます。

わたしと山岡功典師はカトリック司祭に按手叙任されましたが、みんなから敬愛された古川師は、闘病中にカトリック信徒として教会に受け入れられ、本年1月に、主の御手に召されました。同労の司祭のうち、山本司祭のみが、今なお病のうちにあります。

わたしたちは、山本司祭のお体と魂の上に神様の特別な癒しの恵みを祈りつつ、御手のお働きを待っております。皆さまもどうぞわたしたち全体のため、出来ればお祈りのうちにお覚えくださるよう、おねがいいたします。(梶原史朗)


2014.6.8  豊橋集会   日本キリスト聖公会司祭 レビ 山本祐策


『キリストのおられる教会堂』
   ー聖なる空虚(間)(Sacred Emptiness)を超えてー



今年2月、清里「聖餐式」の集いで、梶原主教様は「キリストのおられる処に,教会はある」という題で説教なされました。感銘深いお話でした。 私は何枚かコピーし、知人に配布し、また折に触れて読み返して参りました。そしてこの度豊橋集会で説教を仰せつかり上記表題をつけお話することにしました。

  みなさまも良く知っておられるところですが、ルター派の牧師で、20世紀の偉大な神学者の一人に数えられています、パウル・ティーリッヒという方がいます。この方は日本の宗教にも強い関心を持っておられた方で、古都、京都を訪ね、宗教者、宗教学者達と対話を重ね、自らの神学思想を更に深めていったと推察されます。

ティーリッヒは、伝統的なキリスト教の概念を用いることに代えて、日常的な言葉の中身を深化させた言葉でもって神学思想を表現した方でした。 「存在への勇気」「存在の根柢」「究極的関心」など・・・。

そのような言葉の中で「聖なる空虚(間)」(Sacred Emptiness)の語は、ここ数年私の心につかえてきました。

近時資料を整理する中で、1995年に九州大学建築学教授として最終講義をなされて間もなく逝去された、故前川道郎教授の講義が採録されたもののコピーを見つけました。「聖なる空虚」を「プロテスタント教会堂」の建築理念として、退職後さらに研究を続ける道標とする決意を語られたものでした。

ティーリッヒは、プロテスタント神学者として丸物のゴテゴテした置物で装飾されたカトリックの大聖堂、?それはゴシック建築で堕落の極みに達したとさえ極限して?批判しています。

だからと言って一切の装飾物を取り払い、教会堂そのものさえ不要視するプロテスタントの行き方をも批判します。

ルター派の牧師の子として育ち、少年時に建築家となる夢を抱いたことがあったティーリッヒには、プロテスタント教会堂とは如何にあるべきかは、終生の課題の一つでありました。

先に述べましたように、故前川教授は、テーリッヒの芸術論、建築論と対峙し、自己の建築学の樹立を計った方でした。この方によれば、信徒が互いに交わり、礼拝を共にし、主なる神のご臨在をその都度生々と感得する場所がプロテスタントの教会堂であるのです。

ただ、制度的、手続的に共同の礼拝が進められるという常態化、化石化した儀礼ではなく、相集うプロテスタントの成員が、その都度毎に捧げる共同の礼拝の中で生ける神と出会う・・そのような集いが真の「教会」であり、その場が「聖なる空虚」であると断言しているのだと私は読み取りました。

   さて私たち日本キリスト聖公会の礼拝では、聖日毎に聖書のみ言葉が語られ、使徒を継承する主教によって按手を受けた司祭が聖奠(洗礼と聖餐)を執行します。司祭は、「会衆の罪が赦されんことを」父なる神に執り成します。

会衆もまた、万人司祭の一員として「司祭」のために罪が赦されますように執り成し祈るのです。

遠くその昔、エルサレム神殿が完成し神に捧げられる祝いの席で、父ダビデ王には許されず、代わって神殿を造営した子ソロモン王は、民のためにこのように祈りました。「天地を創りたまいし主なる神よ、あなたは人の手によって造られたこの宮の中に住まわれる方ではないことを私は存じあげております。

しかし、主なる神よ、私があなたに叫ぶ(祈る)とき、どうかこの民のためにこの宮に手を置き、私の叫びに耳を傾けて下さい。」と執り成し、この祈り(叫び)を捧げたのです。

そして真の執り成し者、大祭司である主イエスは、ただ一度天の至聖所に入り、ご自身を真の犠牲として捧げられ、父である神の前に、罪人である私たちを執り成しされました。

罪を贖われた私たちは、共同の礼拝・聖餐式の中に、臆することなく主なる神に会見できるのです。ここに、私ども信徒の交わりと私たちと主なる神との出会いが現成されるのです。

大祭司である主イエスの贖いと復活、使徒を継承する主教→司祭の司式のもとで私たちは新たな生命に生かされるのです。このような水平と垂直を切り結すぶ出会が現成する集いが、キリストの「教会」であり、その場が「キリストの教会堂」であります。この場は石組の建造物、あるいは木造の建造物のこともありましょう。しかしまた、初代教会の迫害時にそうでありましたように、カタコンベ(地下の墓場)、或いは、迫害を受けたキリシタンがひっそりと身を潜めた家の奥まった一間であったこともありましょう。

 主イエスが私たちと共に居られる礼拝、そこに真の教会があり、真の教会堂

-- 聖なる空虚(間)-- への扉が開かれているのです。





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