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司牧のことば • Pastoral Messages
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司牧の言葉 Pastoral Message

小雨降る秋の墓参り
A Rainy All Souls Day

ラファエル梶原史朗

今日の諸魂日は。材木座の聖公会墓地を一人で訪ねました。駅前でバスに乗り、横須賀線のガードをくぐったところで乗り違えたことに気が付き、信号で止まるのを待って運転手さんに確かめ、そこで降ろしてもらうことができました。古都鎌倉の運転手さんは、自然で親切でした。

そこから煙るような微雨の中を傘さして歩いているうちに、何時しか差さないでも良くなってきました。信号を幾つか通ってやっと霊園入り口に辿り着きました。そこから急な坂を登りますが、すぐ足がこわばって来てなかなか前に進みません。時間をかけ、やっとの思いで平場にあるお茶屋に着いた時、足が上がらず前につんのめって硝子戸にぶつかり、店の人を驚かせてしまいました。

少し不愛想に問われたので、「私は、聖公会の者です。明日は、皆がお参りに来る筈ですが、今日は一人でお参りに来ました。」 そしてたまらずに「お茶を一つください」と言いました。店の人は、見慣れない顔のせいでしょうか、あるいは硝子戸に倒れそうにぶつかった行き倒れのような年寄りとみられたせいでしょうか。 でも聖職カラーをしていたので「どこの牧師さんですか、お名前は」と言います。「昔、逗子の牧師をしていました。名前は、これこれです。」と答えました。やがて出された熱いお茶を二杯も飲み、からだも温まり、足も休まったので、花を貰って外に出ました。

雨はやみ、周りに人は全くおらず、実に静寂そのものでした。墓前には、手桶三つほどあり、花が入っていました。最近どなたかがお参りに来られたのでしょう。その一つにいま求めた花を入れてぼんやりと立っていました。この墓地が造られてからのいろいろな人々のことを思い出しました。墓誌には、百四、五十人ほどのお名前がありました。

実は、今日の墓参を思い立ってここに来るまでは、今まで親不幸をして来たのだから、今日は、改めてわが親族だけのためにきちんとお祈りをしなければ、と思っていました。しかし、墓誌のお名前を一人一人確かめているうちに、親たちに対する思いと共に、今は眠れる五つの教会の友人、知人一人一人のことが思い出され、まだお元気であると思っていた何人かのお名前も見つけました。ああ、あの人も、この人も、わたしの知らぬうちに召されていたのだ、という思いに満たされたとき、わたしたち人間のすべてが、神の支配の御手うちにあることを深く思わされたのです。そして当たり前のことかもしれませんが、今日はここに名を記されているすべての人のために改めて祈ろう、と姿勢を正しました。

まず、聖歌447 またましらたま こがねひかる を歌いました。
次に、主の祈りをささげました。
次に、三つの祈りをささげました。 祈りの内で、墓誌にある全ての人々は勿論のこと、さらに、最近、洗礼を受ける折なく逝去したある魂のことも覚えて祈りました。
そして、最後に、聖歌 137 このよの いくさをおえ の一節だけを歌いました。
こうして、一時間を越えて、主にある恵みと交わりに満ちた祈りの時を過ごすことができました。
帰りには茶店のおばさんも ニコニコ「お元気で」と言ってくれました。

実は、今日の墓参も、わたしが聖職志願をする頃、当時の牧師であった司祭様が、わたしを連れて、市内の二、三のお寺の中にある信徒の墓を訪ね、サープリスにストールをつけてお祈りをされた日々を思い出させるものでした。聖歌 またましらたま も、その時以来歌っている聖歌です。今日までの神恩には、ただ感謝の思いしかありません。

そして、今日の墓参の間中、わたしの心中に感じ取っていたことは、自分がカトリック司祭に叙階されている現在敢えて言いますが、神のみ手の内にあっては、教派の違いなどというものは、その現実をしっかり認めつつ、まことに愚かしいこと、罪深いこと、み前に懺悔すべきことである、という一つの奥深い真理でした。

どうか、神の平安が、主を信じて世を去ったすべての人の上にありますように。アーメン。

また、地上の教会の上にもさらに一層、豊かにありますように。アーメン。

                            (2015年11月2日)





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