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司牧のことば • Pastoral Messages
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司牧の言葉 Pastoral Message

イマヌエル古川潤児兄(元聖公会司祭)の召天
Immanuel Furukawa (former Anglican priest) has departed

敬愛する元聖公会司祭イマヌエル古川潤児兄が、2016年1月11日 夕方6時2分、ショートステイ施設 仁生園にて、夫人の篤い看護と、周囲の人たちの大きな親切のうちに、まことに平安のうちに天に召されました。享年85歳でした。残された夫人ドロテア敬世姉も要介護の身でありますが、なお、しっかりしておられます

通夜 1月12日、葬送ミサ、葬送式は1月13日、いずれも自宅にて。司式は、梶原史朗神父と典礼奉事者田中信彦兄によって行われました。 参祷者は、少人数ながらカトリック、聖公会、長老派の親類縁者たちで、まことに神の恵みにみちたものでした。

説教

わたしたちは、「永遠の命」というメッセージをどのように考えているでしょうか。それはしばしば誤解されています。

確かに、主に召され世を去った愛する人との懐かしい思い出によって、私たちは、ある時には慰められ、ある時には救われ、力を与えられます。その思い出はとても懐かしく愛に満ちたものです。また親しい友と個人について思い出話を交わし確かめ合うことも、暖かい、言い尽くせないほどの幸せな交わりであることでしょう。しかし、それが永遠の命でしょうか。

神の与えてくださる永遠の命とは、そのような思い出の中にあるものと考えてはなりません。思い出は、遂には時間とともに失せて行き、知人たちも死んで行くとき、消えてしまいます。

一体何をもって『永遠の命』と言うのでしょうか。

人間の世界は罪に満ちています。個人的に自分は罪びとであるとは信じにくい人であっても、現在の戦争と殺人、差別、無関心、言い換えれば自己中心に満ちた世界を見れば、やっぱり人間は罪びとなのだということを感じ取ることができるでしょう。

キリストは、そのような人間の、このどうしようもない罪を背負い、罪の救いのために御自身をささげられ、其処に永遠の命を実現されました。この唯一の永遠の命であるキリストの命に繋がれること、それが永遠の命なのです。人の記憶の中に覚えられ懐かしまれて消えて行く記憶ではなく、自分自身がしっかり神に覚えられ、神の記憶の中にしっかりと記憶されることです。

故人は、カトリックに改宗した後、何度かミサに陪かられ、声を絞り出して神の恵みを深く感謝し、そして最後に、カトリック信徒として、感謝の中にその魂を主の御手にお委ねになりました。

人に覚えられるということは喜ばしく尊いことです。しかし永遠の命とはもっと客観的なこと、うつろい易い人間に覚えられることではなく、キリストの命に繋がれるということにあるのです。

それを悟ったならば、人からの良い評判を求めたり、あるいは評判を自ら楽しんだりする偶像礼拝のようなことはむしろ避け、わたしたちが皆、各自ひたすらに永遠の命を求め、永遠のいのちの中に生きることが、敬愛する故人の模範になら倣う、ということであると言えましょう。

なお、南十字星の聖母属人教区長(司教に相当する職)ハリー・エントウィッスル師父が、オーストラリアの聖堂で、故人と夫人を覚えてミサをささげますと連絡がありました。

+願わくは、世を去りし忠信なる主の僕の上に、光明と平安が豊かにあらんことを。





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