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司牧のことば • Pastoral Messages
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司牧の言葉 Pastoral Message





説教 
マ ル タ と マ リ ア -- 巡礼の旅路 -- 
Martha and Mary -- A way of the Pilgrims --

RSK




必要なことは唯一つである

ベタニヤに来られた主イエスの一行を家に迎えたマルタは、もてなしで大忙しでした。それに引きかえ妹のマリアは、主の足元に座って、ただ御言葉を一心に聴いています。

姉マルタは、「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。私を手伝うよう、仰ってください。」と言いました。マルタの腹立たしさがよく伝わってきます。

主は、「マルタよ,マルタよ」と2度も呼び掛け、慈しみをもって言われました。

「あなたは、もてなしのことであれこれと、多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことは唯一つである。マリアは良い方を選んだ。彼女からそれを取り上げてはいけない。」 主は、その言い分をお取り上げになりませんでしたが、二人を祝福なさいました。

人々の受け止め方

以来、人々はこのみ言葉を大切にしてきました。古代教会は、マルタのような活動的な生活よりも、マリアのように静かに神を思う生活が優れていると教えました。事実、ある時期、若い人たちは、都市の司教や司祭たちよりも、砂漠の隠遁の修道者たちを慕って砂漠へ出て行きました。それは人間の深いところに根差すものでした。しかしこれを、あれかこれかの二者択一的なものとして受け取ってはなりません。

17世紀のカルメル会修道士で一生台所で働いたブラザーローレンスの深い神との一致の生活は、その後の修道生活、霊性の普遍的模範となりました。また、19世紀の、同じカルメル会のシスターでわずか24歳で天に召された聖テレジア(小さき花の)は、台所での仕事の中にも神との深い一致を経験し、神との一致という彼女の深い聖性のゆえに、人々は、彼女に取りなしの祈りを求め、その祈りによって人々の病は癒されました。そして、例のないことに、帰天後30年ほどで列聖されということです。母亡き後、4人姉妹は父や他の兄弟とともに北フランスに移ります。4人の姉妹はそれぞれに皆カルメル会のシスターになりました。末の子の彼女は、生まれつき体が弱く、ついには結核でなくなりますが、幼少のころから修道生活を熱望していた人でした。

しかし現代になりますと、一時流行しましたが、教会の礼拝よりも社会の困っている人々に仕えることこそ真の礼拝である、と主張して、教会の礼拝、霊性を軽視する人たちも出てきました。

私たちは、先程の主のお言葉をどう受け止めたらよいでしょうか。

山上の垂訓

わたしたちはこれを、主の中心的な説教である山の上の説教の光の中で考えなければなりません。主は、山の上で、集まってきた群衆と弟子たちに仰せになりました。

「心の貧しい人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、 その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、 その樋渡たちは地を受け継ぐ。

義に飢え乾く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、 その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、 その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」

これらは、旧約の詩編や預言書にずっと言われ続けてきた「義」であり「幸い」であって、主イエスはこれをご自身としっかり関係付けて理解しておられました。すなわち、「私のために、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられるときは、大いに喜びなさい」と言われたのでした。即ち、救い主である私が今来たのである、その時に神の国が今地上に切り込んで入ってきているのだ、と宣言されたのでした。

クロノスとカイロス

ところで聖書には、二つの時が出てきます。一つは、時間がただ年代記的に連続して続くような「時」、すなわちクロノスです。精密な時計のことをクロノメーターというそうです。もう一つは意味とか価値を持った特別な出来事が起こる「時」、すなわちカイロスです。マルコによる福音書の初めに、主イエスが、「時は満ち、神の国は近づいた あなたがたは福音を信じなさい。」と宣言されましたが、この場合の「時」は、カイロスという言葉で表されています。 主イエスは、そのように決定的なカイロスとして世にお生まれになり、クロノスを断ち切って上から突入してこられたお方なのです。ですから、お言葉に聞き入るマリアを、「マリアは良いほうを選んだ。これを取り上げてはいけない』と言われたのは、 時間の流れが連続して流れている平穏・平和な時代の倫理としてではなく、救い主が今、世に来られたという切迫したカイロスの時の人間のとるべき道として、「必要なものは唯一つ。彼女からそれを取り上げてはいけない。」とおっしゃったのです。

現代の私たちの有様は、どうでしょうか。

カインの罪ののち、「ノド(さすらい)」の旅

現代の世界は、貧困、格差、失業、疎外、災害、内乱、病気、気が、内戦、国際紛争、難民創出、と乱れに乱れています。 エデンの東へ追われたアダムとエバは、カインとアベルを生み、弟アベルを殺したカインは神に願って園の東、ノドの地に住むことを許されました。こうして人類の「ノド」即ち「さすらい」は始まりました。

私たちの務め

私たちはどうしたら良いのでしょうか。

この世のクロノスを逃れてカイロスを求めるのではありません。クロノスの中に住みながら、クロノスとともに生き、カイロスたる神の言葉を求め続けるのです。マルタを退けるのではなくマルタとともに住み、マルタとともにマリアの喜びに倣うことです。

カトリック教会は、第2ヴァチカン公会議以来、自らを、ともすれば陥りがちであった地上の揺るぎない神の王国としてではなく、神の国の栄光ある完成を目指して旅する巡礼者として、再発見したのです。

しかし、ノドのような宛て途(あてど)ないさすらいの旅ではなく、クロノスの中に突入してすでに始まったカイロスとしての神の国を、今味わいながら、なおその完成を目指して旅する巡礼者であります。そしてこの旅する教会の属する私たち一人一人も夫々巡礼者なのです。

巡礼者に必要なもの

巡礼者に必要なものは、何よりも、マリアのように、朝晩、神の言葉を聞き、祈る幸せを自ら体験することです。毎日ですよ。この神の言葉を聞き、祈り、神との一致を体験することは、真の幸せ、至福の時であリ、また、旅路の食べ物でもあります。これを私たち一人ひとりが怠ったり、実行しなくなれば、教会は教会でなくなります。

私たち巡礼者は、この地上のクロノスにあり続けて、悪の力や障害に耐え、そこで祈り、ミサを献げ続けて行く者たちです。

私たちは、自分から自分に一番良いことを取り上げないようにしなければいけません。

そして、皆でともに、ミサの度に、「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世世に至るまで。アーメン」と、感謝と賛美を奉げ続けて行くように召されているのです。

父と、子と、聖霊のみ名によって。アーメン。

(2016・7・18)




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