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司牧のことば • Pastoral Messages
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司牧の言葉 Pastoral Message





説教  今年の四旬節はもう終わりに近い
-- キリストに倣うとは Imitatio Christi --
       
ラファエル 梶原史朗 

四旬節(大斎節)は終わりに近づき、あとしばらくで聖週に入ります。

今の日本の私たちの生活を振り返ってみると、一般的な低収入と不安定収入によってでしょうか、学校や職場での、弱者に対する様々の差別、いじめ、ハラースメントは日常化、陰湿化して後を絶たず、個々人は自信を失い、次第次第に相互不信に陥り、孤独化しているように感じられます。

旧約聖書以来のこれらの不正義、攻撃、不信、妬み、裏切り、嘲り、いじめは、今後も古今東西に亘って、おそらく姿を消すことはないでしょう。

これらは、戦争、殺人、盗みなどの行動による犯罪と区別して、言葉による犯罪と言ってよいかもしれません。そしてそれらの奥に私たちは、神に対する人間の罪を見出さないわけにはゆかないのです。人間はなんと罪深い存在なのでしょうか。

更に観察すると、わたしたちには、この罪の有様から救われたいという願いを持ちつつ、同時に、他方では、この罪の状態が快いので、これを続けていたいという願いがあり、その二つの間に引き裂かれております。

「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」、「ああ、私は何と惨めな人間なのでしょう。」と悩んだ聖パウロも、今の私たちと同じような不正義と不信仰にみちた社会の中にあって悩みました。

そして主イエスは、地上での公生涯を過ごされる間、ご自身の気高い使命にもかかわらず、パリサイ派、律法学者、祭司、ユダヤ人指導者たちの間にあって、何の理由もない誹謗、反感、嫉み、裏切り、いじめを、嫌というほど味わわれ、ついに十字架につけられ、殺されてしまわれたのでした。

今の日本では、学校や職場でのいじめや差別は絶えることがなく、一度仕事に失敗すれば、再び立ち上がるチャンスを得ることは不可能に近く、まして重い病気に掛かれば、現在と将来への不安に覆われ、希望を見出すことが難しくなっています。

この悲しむべき現状を克服し、ここから抜け出す突破口は。無いものでしょうか。

私には有力な答えを見出すことはできません。いかし、老年になって叙階された一介の司祭として次の二つのことは申し上げたいと思います。

一つは社会的なこと。それは次のことに尽きます。

第一は、 世界の国々の指導者には、現在の経済優先主義の政策をやめ、改心して、国民の福祉と、富の分配に腐心する人を選ぶこと。
第二は、 国々の市民一人ひとりは、贅沢と飽食を社会的悪徳として改めて認識し、個々人の、人間としての尊厳を尊び、個々の国の文化・宗教を互いに尊敬し、交流すること。
これらのことを心掛け、祈り、身近なことから努力することです。

他の一つは、信仰者の内面に関わることです。この世界にあって、わたしたち信仰者が、改めて信仰の原点に立ち返って、キリストを模範としキリストに倣うことです。

わたしたち各人が、どんなに虐め、蔑み、いわれなき誹謗、攻撃、裏切りにあっても、キリスト御自身がみずから傷つきながら、私達と共に耐え、共に戦っていてくださるのですから、そのキリストと共に、心を気高く保ち、毎朝鏡を見て、苦しい中にも「今日はさわ爽やかな表情を頂だけますように」と祈り、くじけない心で心の内外の悪の力と戦い続ける、ということです。それは、他方どのように長い時間がかかっても、上に述べた社会の聖化にもつながってゆくと信じております。

聖週間を迎え、もう一度心静かに、十字架上のキリストに目を向け、人間の罪、苦しみ、病、悲しみ、を味わい背負いつつなおそれに打ち勝ち、今、私たち一人ひとりと共にいてくださるイエス・キリストに頼り、心から感謝と祈りを捧げて参ろうではありませんか。

古今聖歌  93  われ渇く
あらゆる いずみを  つくりましし きみ
くるしみ さけべり  「われ かわ渇く」と。

いたでの くるしみ  いたずき*の なやみ
ことごと あらわる  このみこえに。
*注)骨折り、心労、病。 
                              

(2017・3・31)




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